目の前にいる人が、幸せじゃないように見える時
大抵私が、その人を幸せじゃないことに
依存している。
その人を、幸せじゃなくしている。
失礼な話だ。
依存している限り
私は一人ではない気がする。
依存してると
目の前の人を元気にするために
生きていていいと
思えるから。
「この人に何とか元気になってもらいたい。」
一見、優しそうで危険な思考だ。
目の前の人を不幸に仕立てあげ
私はアナタに優しくするから
アナタも私から離れていかないでね。
ズブズブズブ・・・・
失礼な話だ。
本当は全く逆なのに。
依存をやめればやめるほど
孤独感はなくなる。
依存をやめるには
自分自身に集中すること。
私の中の本当の優しさに気づくことだった。
取引の優しさとはけっして違ってて。
「リエちゃんは優しいよね~!」って
時々、言われるからめちゃ勘違いしてたけど
私の奥の奥
私という自我を超えたところに
本当はあったかくて
おっきくて
溢れそうに
満ち満ちている。
私という自我が嫌われるのが怖いからっていう
ちっぽけな理由でまき散らしている
チンケな優しさとは比べようもないくらいの。
うすうすあるんじゃないかって気づいていたような気もするけど
取引の優しさにかまけててさ。
なかなか実感できず、今日まで。
ほんと、ごめ~ん。
とりあえず、優しさまき散らすのやめて
じっとして、じ~として
目つぶって
何もしゃべらず
まーるくなって
転がって。
そのうすうすをとっぱらって
ちゃんとあるな
ずっとあったな
あっちにもこっちにも!
ってぼやや~んと感じれたら
「目の前の不幸そうなもの」に依存する必要がなくなった。
(ような気がする)
あー!みんな一緒だねー!!
一緒だから、自由だねー!!って思った。
不幸なんて最初からなくて(どの最初かわからんけど)
最初から幸せだった。
幸せとして在った。
幸せで在る。
幸せで在るって、愛じゃーん。
ずっとずっと愛だった。
なので
幸せは願うものじゃなくて。
気づくもの。
幸せは感謝するもの。
すでに、とっくに幸せだったと気づき感謝する。
それが、祈るということ。
そんな感じで
今日も
幸せを祈るのよ。
もし
アナタが私に
自分がどんだけ不幸かを訴えかけてるように感じたら
それは、私が私にかけてる罠だ。
その罠にかからないように
私はじっと耳を澄ませたいと思っています。
私がつながっている愛に。
アナタがつながっている愛に。
アナタと私がひとつである愛に。
そして祈るのです。
アナタも私も幸せでありますように。
目に見える優しさはわかりやすいけど
ホントはそのなんにもないように見える背景に
愛がある。
広すぎて
でっかすぎて
あたりまえすぎて
目には入っているんだけど
包まれてはいるんだけど
見えてなかった。
感じてなかった。
それだけなのね。
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