怒っている人がホントに苦手で。
自分が怒られていると全身全霊がフリーズします。ってくらい固まります。
怒っている人と怒られている人という場面もダメ。
ネットやテレビなどのコメントで怒っている人もダメ。
めちゃめちゃ怖い。
めちゃめちゃ怖いので。
私も怒っちゃいます。
でも「怒る」という事自体がとても赦せないことなので
怒る私を
怒っている私を
怒りを隠し持っている私を
ずっとずっと赦せなかった。
不安とか恐怖とか怒りになって表出しやすい感情とか
なくなる方法ないかな?って思ってきたの。
なくなったら楽だろうなーーー!って。
それはそれは頑張って勉強してきたの。
そしたらね、一応はわかったような気になった。
怒りってのは2次感情で。
怒りの前には悲しみがあって。
その悲しみは幼少期の家庭環境とかの影響を多大に受けていて。
その時のくすぶったままの悲しみをもう一度出して。
なんなら両親の悲しさにまで思いを寄せて。
何度も何度も。
でも、まだ消えない。
実は人間の意識ってのはそもそも罪悪感が根底にあって。
それを訂正していく必要があってね。。。。
終わらねえ。。。。。!!!
いくらやってもなくならないの。
怒りちゃん。
その理由や理屈や論理なんかいろいろ試みましたけど
納得してくれなくてさ。
なんか気づいちゃったんだよね~。
怒りそのものを悪いものとして決めつけ
悪を持っている私が私を責め続けていた。
つまり学びの前提が
怒り=悪
として始まっていたことに。
結果
学びを深めれば深めるほど暗に
自己否定をも深め続けていたことに。
持っている怒りを理屈で抑え込もうとする。
そんなことに使うエネルギーはものすごくハンパなくてですね。
湧いてくる感情に素直になれないことは
自分を否定していることに他ならないじゃん。
訂正するべきは
怒り=悪という前提だけでいいんでないかい?!
そしたら、怒りはなくさないといけないって方向に躍起になる必要はなかったよね~って。
長かった・・・・
なんかさ、そもそも
怒りをなくすなんて現実的か!?
いや、もちろん怒りのない悟りの境地を目指してもいいのですけれど
目指せば目指すほど
悟ろう悟ろうとするほど
逆に自己否定を強くし
悟りの境地から離れていくような。
まあ、それもこれもけっこうやってきたからこそ
わかるようになった感覚ではあるのですけれど。
なので、今は
不安とか恐怖とか怒りとかイライラとかモヤモヤとかと
安心していられればいいなと思えるようになりました。
不安の中に安心している。
論理的に矛盾だろうと、カオスだろうと
それが世界だし、それですら赦されているのが
紛れもない真理。
きっと
もっと
まるっと
赦していくのです。
そうやって
やっと
自分にかえっていくんだよね。
自分にかえってきてるの。
それが、すごい、嬉しい。
私が
私で
すごい、嬉しい。
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